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The Science Bulletin of the Faculty of Agriculture. University of the Ryukyus >
No.31 (1984/11) >

 
Title :沖縄の杣山制度・利用に関する史的研究(林学科)
Title alternative :A historical study on the system and the utilization of the SOMAYAMA (common farm forest) on Okinawa (Department of Forestry)
Authors :仲間, 勇栄
Authors alternative :Nakama, Yuei
Issue Date :19-Nov-1984
Abstract :沖縄県は亜熱帯の地理的・自然的特質をもつ一方, 歴史的には島津藩による琉球王朝の支配, 明治政府の琉球処分, 米国の沖縄統治, 本土復帰という, 日本本土の他の地域にはみられない展開過程を辿ってきた。そしてこのような目まぐるしい政治体制の変革の下で沖縄県の林野制度と林野利用も大きな影響をうけ, 他府県と異なる展開構造を示してきた。本研究は, このような沖縄県の林度制度と林野利用のすがたを, 制度史ならびに経済史的な観点から分析・検討したものであるが, その成果を要約すると次のとおりである。近世琉球における杣山の管理・利用形態は「間切模合山」, 「村々模合山」の言葉に象徴されるように, 地域住民の共同体的利用慣行が一般的であった。王府はこれを杣山荒廃の原因と考え, 杣山の管理主体の所在を明確にするために, 間切内の村=部落単位に杣山を区分し, 杣山の保護・取締りに努めさせようとしたのである。王府はまず最初に全琉球の杣山の境界測量を実施して, 各地域別の杣山の正確な面積を把握するとともに, 杣山に関する種々の森林規程を公布し, さらに地方在勤の山奉行を設置することによって杣山の管理体制を強化した。こうして18世紀の30年代から50年代にかけて杣山は制度として確立し, その実質的な管理・利用の主体は基本的には間切内の村に帰属するようになったのである。ところで, 杣山の農民的利用形態は, 地割制度や与制度および農民の階層性で特徴づけられる村落共同体によって規定されるが, その内実はどのようなものであったか。まず第1にあげられるのは, 杣山の「喰実畑」利用である。「喰実畑」とは一種の焼畑農耕地のことで, 「キナワ畑」, 「山野畑」(=山畠), 「明替畑」などとも称し, 百姓地と同様に地割の対象になるものもあり, またそうでないものもあったが, 百姓地と異なって無税地として貢租負荷の対象地から除外されていた。杣山を「喰実畑」として利用する場合には, まず王府に開地作職願を申請し, それが認可されると, 村落内で「喰実畑」用地を人頭割に割付し, そのあと焼払い, 地拵えの作業を共同で行ない, その土地にイモや殻類等を植付け, 3∿4年間使用して次第に地力が消耗して作物の実入りが悪くなってくるとその土地を放棄して造林地に転換する。造林樹種は主に松, 樫木(イヌマキ), 杉(広葉杉)等で, 造林木は実質的には造林者である村=部落に帰属し, 王府はこの村を介して御用木を調達したのである。このように杣山の「焼畑造林」利用は, 農民にとって御用木の仕立替と飯料確保の2つの意味をもっていたのであり, それは同時に農民にこの種の慣行を認めることによって, 王府側にとっても一定の貢租を安定的に徴収でき, また御用木の円滑な供給を図ることもできるという, いわば一石二鳥の意味をもつものであった。第2は杣山の造林利用である。
杣山の造林形態には(1)間切・村による造林, (2)個人造林, (3)王府造林の3つの種類がある。王府造林の代表的なものに「定式藪山仕立換」というのがあって, 名目上は王府直営の造林形態となっているが, 実際にはその中には間切・村負担で仕立てられたものが相当数存在していた。各間切の農民は王府から毎月一定の夫役を課せられ, それを現夫で提供するかわりに「日用銭」のかたちで王府に貨幣地代を上納する仕組みになっていた。王府はこの「日用銭」の何カ月分かを現夫と相殺して杣山仕立換費として各間切に下付していたのである。第3は木材生産の場としての杣山の共同体的利用である。王府に納付する御用木や間切・村内で使用する公用の用材などを調達する際には, 杣山の所持形態に関係なく, 他間切の杣山内にも山入して, それ相当の木口代を支払って伐採利用していた。それとは対照的に, 私的用材の場合には, 各村所持の杣山より伐出するのが杣山分割以降慣行化していたが, これも地域によって若干異なっている。たとえば, 中頭・国頭地方では他村所持の杣山に山入して伐木することはできないけれども, 久米島や宮古島では許可を受けた者は, 杣山の管理区域にかかわりなく, 同間切内の杣山であれば他村の杣山内に立入って伐木しても差し支えないことになっていた。これは中頭・国頭地方には村中入会利用, 久米島と宮古島には数村共同利用の諸形態が一般的に存在していたことを示すものであり, したがって杣山の改革にあたって, 王府が打ち出した1村所持の分割政策は, 各間切・村に充分浸透しえず, 実質的には杣山分割以前の共同体的利用慣行が濃厚に残存していた, とみられる。農民は旧来の慣行によって薪木用の雑木および落葉落枝, 下草などを杣山内で自由に採取していたがこれもすべて無制限であったわけではなく, 村内法にもとづく一定の共同体規制の枠内でのみその利用が許されていた。そして杣山の入会利用も実質的には地割制度と結びついた「地人層」を中心に展開しむしろ寄留民=屋取人や下
According to prewar and postwar studies, the SOMAYAMA in the time of the Ryukyu dynasty has been accounted for only as a feudal clan forest. In opposition to this theory, this study will prove that the SOMAYAMA was purely a common farm forest, by analyzing old documents from the point of view of the historical meaning of the existence of SOMAYAMA system, and the peasantry utilization of the SOMAYAMA. The basis for the author's argument is summarized as follows : The SOMAYAMA had been utilized by the village community for afforestation puposes and community use for timber production. Above all is the practice of shifting cultivation which was characteristic of the peasant utilization of the SOMAYAMA at that time. This shifting cultivation practice was generally called SHOKUMIHATA, KINAWABATA, SANYABATA, or AKIKAEBATA varing from area to area. The SOMAYAMA was excluded from the land usage tax differing from the peasant owned land. In order to use the SOMAYAMA for shifting cultivation purposes, a written application was first submitted to the feudal clan chief for approval. Upon receipt of clan approval, divide the objective land on a per capita basis in each village. Next, prescribed burning and soil preparation were accomplished cooperatively. Sweet potatos and cereal grains were then planted in the newly prepared area for a 3 or 4 year period. When crop production declined due to soil exhaustion, that was converted to a planted forest. Planted species were mainly RYUKYU Pine tree (Pinus luchuensis Mayr), Inumaki hardwood (Podocarpus macrophyllus D. Don) and Japanese cedar (Cryptomeria japonica D. Don). The possession of the planted trees remained with the village commuity, as the substantial planter. The feudal clan obtained timber through the village community on a sale basis. As stated above, the SOMAYAMA had been principally administrated and utilized by the village community members, and was a significant factor in regulating the peasant's life. That is to say, although the SOMAYAMA was externally enveloped in a crust of a feudal lord's forest land possession, the truth is, the purely common farm forest was a communal forest land possession.
Type Local :紀要論文
ISSN :0370-4246
Publisher :琉球大学農学部
URI :http://hdl.handle.net/20.500.12000/3974
Citation :琉球大学農学部学術報告 = The Science Bulletin of the Faculty of Agriculture. University of the Ryukyus no.31 p.129 -180
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